SEITAITOZAN

整体や登山や何やらで我に返りたい人の日記

人を怒鳴る人の身体に起きていること

長年、誰かが怒鳴る場面、為す術なく従うだけの自分、ほぼ離れるしかない結末、そしてそれを繰り返すことに苦しんできた。

心理学に自分の腑に落ちる解答はあまりなくて、整体の世界でこそ見つけたような気がしている。
以下に整体の言葉を借りながら整理していく。

人を怒鳴るという行為は、本人の身体がそうする必要に迫られて行うことのようだ。
身体の硬直を解き、深い呼吸を取り戻すために。
それくらい激しい運動をしないと緩むことができないほどに身体の状態が悪いので、整えようという働きを身体自ら起こす。

まず自分が楽になることで精一杯だから、怒鳴る相手のことなど全く見えていない。迷惑であること、耐えてくれたこと、相手の身体も硬直させ悪くさせていること、実は面従腹背しているのかもしれないということ…何もわからない。

人によっては、怒鳴ることで他人を怖がらせ押し退けて、楽に生きてこられたという自覚が本当にないらしい。感情は出し切れば(本人だけが)忘れていくし、身も心も硬すぎるから自分自身に対して何の疑いも持てない。相手から突き付けられても絶対に認めないのだ。一見確信に満ちていて断言する様(実際には柔軟さを失っているだけ)に相手は混乱し、その場を凌ぐために合わせることを選びがちだ。しかし、それが事態をより深刻にする。他人の身心を犠牲にして自分の健康を取り戻すことをますます学習させていくからだ。

 

硬直した本人はその身体の硬直を自力で解けずに普段から困っていて、誰かに助けてほしい。そこで近くの無害な人間が何かヘマをするのを機と捉えて鬱散し「あいつが悪いから怒る」と頭で納得を図る。図々しいとそれを指導とすら称する。
しかし、硬い身体に硬い頭の理屈を貼り付けて自他に納得を強いる行為は負のループへの入り口だ。自分で処理できない課題を他人に押し付け、他人の生命を脅かしてもよい理由など存在しない。

自覚があろうがなかろうが、側で一緒に生きている人に自分が処理できなかった分の邪気を浴びせ続け、粗末に扱ってきたのだ。恐怖心でしばし留まってくれる人なら、いるかもしれない。でも遅かれ早かれ、理不尽からは離れていくだろう。距離を置かれ、空いた分を取り戻すためにまた怒鳴るとしたら、孤独の悲しみだけが跳ね返ってくる。

 

人は何のために言葉を学ぶのか。もし本当に相手に著しい非があったとしても、それは冷静な言葉にして相手に伝えればいいだけだ。
感情の発露を相手のせいとか、真剣さの証だとか正当化したがるけれど、自分も相手も見失った身体から放たれる正しさなどただの横暴でしかない。

自分は爆発したくなるような状態なのだと、その場で自覚して立ち止まれる身体の弾力性や感受性は、教わって育てないと身につかないもののようだ。

 

もし人を怒鳴ってしまったら、せめて謝ろう。済まなかったと感じよう。相手には相手の人生があることに思いを馳せられないのなら、先の未来をその人と紡いでいくことはできない。一人ぼっちになりたくなければ、自分の感情には自分で責任を取ろう。

 

怒鳴られやすい人は、自分の身心を最優先しよう。人はまず自分の幸せのために生きているのであり、我が身を守れるのは自分しかいない。怒鳴る人がなぜ怒鳴るのか考える時間は、基本的には無駄だ。怒鳴る本人の勝手であり、本人にしか解決できない問題だからだ。

あなたが耐えるから、怒鳴る人が怒鳴ることを止めないのかもしれない。相手があまりに頑なならば、切ってあげることが本当の優しさなのかもしれない。

 

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ダイアリー開設します。逃げ口上を先に書いておきます。

タイトルの通り、私は整体や登山などを趣味にし、自分と向き合うための題材にしている人間です。

ここにそれを書くことで整理していきます。

読めばわかると思います。今まで決して円満には生きてこられず、巷に出ている野口整体の本に書かれていることにようやく生きる希望を見出し、自分に都合の良いところだけ切り貼りしては、さも自分の言葉であるかのように語ってみせ、それでもお天道様に生かしてもらえているだけの情けない人間です。

他人様の大事なお身体のことまでは、解りません。お困りごとは原則プロに依頼して下さい。